承応3年(1654)、備前一帯に大災害が発生し、流出、潰れ、破損の家屋3739軒、流死者156人、流死牛馬210頭、翌年にかけて大飢饉となり、餓死者3684人におよび、特に被害が大きかったのが児島地方でした。
岡山藩主池田光政(46歳)はこの窮状を助けるため、郡奉行石川善右衛門成一を児島地方の代官所に派遣し、農民救済の第一線に立たせました。善右衛門は「児島はこのままではいつまで待っても飢饉がなくなることはない。稲作をしようと思えば水を確保しなければだめだ」とため池の新設を計画しました。玉野市では長尾村に天王池、田井村には田井津池、中池などを築き、さらに田井村全域を灌漑するため、中池から見能地区まで延々1里35町(約7㎞)の「深山用水」を築きました。
用水は「大溝」とも呼ばれ、田井村の人々の命をつないだ貴重な近世産業遺産であり、現在も大切に使われています。
出典:玉野市教育委員会